大井町あれこれ

大井町商栄会が活動の基盤としている「亀岡市商店街にぎわいづくり推進計画」が平成20年度に策定されました。
この計画は並河駅を中心とした観光集客を目指しており、故中奥良則氏の指導のもと、大井町を学ぶことから始まりました。
まず注目したのは、豊かな自然環境とそこで育まれる農産物でした。
大阪国際大学短期大学部とのコラボで、地元の食材と加工品を利用した「大井御膳」の開発に繋がりました。
観光資源・散策コースとして注目したのは、大井神社・鉄道歴史公園・中世の名残をとどめる並河集落の道と並河城跡・かつて並河薬師として賑わった願成寺でした。
並河地区に偏ってしまいましたが、大井町あれこれと題して紹介します。
                                                       大井町商栄会 会長 船越治雄

大井神社 並河駅 鉄道歴史公園 並河(なびか)城跡 願成寺

大井神社

和銅3年(710)9月、元明天皇の勅命により創建された。
月讀命、市杵島比賣命、木股命の三柱を御祭神とする。
明治6年に郷社と公定、明治10 年に延喜式内神社と公認、また明治40 年に神饌幣帛料供進神社に指定された。
古くは宇津根町、河原林町勝林島も氏子地域であったが、現在は大井町全域と薭田野町太田の一部を氏子地域とする。
神域は、現在の社殿周囲及び馬場の他、以前は大井村役場跡、大井小学校の拡張前の敷地、下拝殿跡、広大な田畑を有し、別当寺として東光寺が境内を共有していたため、社殿の他に多数の御堂が建ち並び壮大なものであったが、慶応年間に仏体並びに仏器は取り除かれ、その後昭和21 年の農地解放で、境内・馬場を除く田畑は全て耕作者の所有となり、境内面積も大幅に減少することとなった。
境内西端の阿弥陀如来像(石像)及び神池に架かる石の太鼓橋は東光寺の名残である。
御本殿は、天正4年(1576)兵火に罹り焼失したが、同12 年(1584)豊臣秀吉が片桐且元に造営を命じて再興。
爾来、420 年もの永きに亙り風雪や地震に耐えしも損傷が著しく、平成21 年(2009)10 月、御鎮座壱千参百年記念事業として全面改修され、現在に至る。
御本殿基礎石は約300 年前のもの、御神前の唐破風は約200年前のものをそのまま再利用している。
「大井」の名は、往古亀岡の盆地は泥湖であったが、大変革の時に湖の中心が乾き残り(現在の神池)、旱魃でも涸れない「大いなる井戸」として、永く存したことに由来する。

当社御祭神は、京都嵐山の松尾大社から亀の背に乗り大堰川(保津川)を遡って来られたが、八畳岩の辺りから水勢が強くなって進めなくなったところ、そこへ現れた鯉に乗り換えて河原林町勝林島の在元渕まで来られた。
この場を通りかかった大工がお社を建立し在元社と呼ばれたが、後に川の氾濫により流されたため、現在の大井町並河を良き処と定めて鎮座された。
この大工が住んでいた里は、今でも「宮前町神前」という地名として残されている。
鯉が現れていなければ当地へ鎮座されることもなく、大井神社氏子地内では、その鯉の大功を崇め大切にし、鯉を食べないばかりか触れることもせず、5月の節句の鯉のぼりもあげない風習が今も残り継がれている。
この鯉伝説は日本全国でも広く知られるところであり、『京都の伝説』(京都の伝説研究会編)に掲載されているほか、テレビ番組や新聞等でも度々話題にとりあげられている。

8月19 日の花祭で奉納される立花(りっか)は京都府無形民俗文化財に指定されている。
ボクと呼ばれる松の古木を土台に、一本一本松葉を差し込んで作った松枝や、松の荒皮、苔などを取り付け、左右対称となる松を一対作り上げる。
この立花は生け花の原形とも言われ、その作製技術は必見の価値がある。現在も使用されている薄端(花器)や花台は、300 年以上も前のものである。

10 月16 日の例祭・神幸祭では、亀岡でも一、二を争う重さと言われる御神輿が氏子地域を巡幸する。古来は六角形で頂上が擬宝珠の神輿であったが、明治40 年に新調され、その後修理を重ねて現在に至っている。
貞観8年(866)から始まったとされる競馬は、古来の競争こそ無くなったものの、武者姿の具足と陣羽織姿の飛馬に加え、稚児と宮司の合計12 頭による騎馬行列が、現在も古式に則り行われている。

                   (記:大井神社 権 宜 稲本高続)

並河駅 鉄道歴史公園

明治32年8月15 日、京都鉄道により京都・園部間35.2 ㎞の鉄道が開通した。
当時の停車場(駅)は京都・丹波口・二条・花園・嵯峨・亀岡・八木・園部であった。

亀岡生まれの田中源太郎等により設立された京都鉄道株式会社は、明治40年に政府に買収され国有鉄道となる。
昭和9年、沿線の村では、新駅設置の請願運動がおこり、昭和10年7月20日「馬堀駅」・「並河駅」・「千代川駅」が設置された。
これらの駅は請願駅であり、地元は多額の村費と住民の労力奉仕を負担することになった。
当時はガソリンカー一両が停車できる短いプラットホームだけの駅で、一日に四往復の便でした。
昭和23 年、福知山鉄道局から、「汽車の長さだけのホームと乗車券の発売と駅員の宿泊できる駅を作りなさい。
作らなければ汽車は停車させません。」と通告されました。
駅の建設費は150 万円(村の年間予算は100 万円)という厖大なものでした。
それでも、「並河に汽車が停車しなければ、後世の人たちも困るだろうと」との思いから、村長や村議会は駅の建設を英断し、最小の予算で取り組みました。
村民全員(各戸から1名ずつ)が手弁当で労力奉仕を行いました。ホームは園部駅から貨車で運ばれる石炭殻で築かれ、側壁は木杭を打ち込むという重労働でした。
昭和24 年に完成し、12 月には桜の木が植えらました。(大井だより「並河駅の今昔」稲本・溝口氏寄稿参照)
この並河駅も、複線電化のために平成元年3月に新駅に交代しました。
旧並河駅への住民の思いから駅舎跡が鉄道歴史公園として整備され、昭和24 年に植えられた1本の桜は健在である。
さらに、DD51 型ディーゼル機関車や0系新幹線のカットボディが展示されている。
(記:船越治雄)

並河(なびか)城跡

並河城跡は、大堰川と犬飼川が合流する地点に形成された微高地上に立地する平城であり、集落と一体になった居館的性格の城館である。
下水道工事に先立って、本丸跡の発掘調査が行われ、最低4時期以上の遺構が重複して見つかっている。

鎌倉時代の初期に下総国の相馬小太郎義胤の二男、宗義が新補地頭としてこの地に赴任してから、戦国時代末期まで居館を構えてきたのである。
時代の変化に伴って、中心部を高くし、周囲に堀を廻らし、土塁を構築している。
『丹波志桑田記』によれば城跡の南・北・東には大堀のあとがあったという。
居館は近世城郭の先駆的な城へ変わっていく。
並河城は犬飼川、願成寺川、鍛冶屋川に囲まれ、これを外堀として利用している。
本丸の直下には川船の船溜があり、水運の便に長けていたという。 

城跡の規模は、東西200m 南北300m と推定されているが、集落域を含めると広大となる。

城の中心である本丸を南側に置き、北側には家臣の屋敷を配置している。
防御のために、道を湾曲させ複雑な道路形態としている。
また重要な場所には、願成寺、法然寺、西念寺、萬福寺、阿弥陀寺等の寺院を配置している。
このように現在も、並河の集落は中世村落の面影を残している。
(制作協力:亀岡市社会教育課 樋口隆久氏 / 記:船越治雄)

願成寺

臨済宗妙心寺派の寺院である。
開創は奈良時代前期とされ、光明皇后が、聖武天皇の病気平癒を祈願し、霊験あらたかであったことから、大伽藍を寄進されたという。
本尊は等身大の薬師如来坐像で、行基菩薩がこの地を訪れ
彫ったといわれている。
江戸時代には並河薬師として賑い、戦後すぐまでは近畿一円の薬師霊場の一つであったという。


この薬師如来坐像は大きな改修がなされているが、その舟形光背が東寺西院の不動明王のそれによく似ており、8世紀末から9世紀初期の作品と考えられている。

薬師如来坐像の大きな改修の理由は、祈雨法や止雨法の本尊であったということである。

並河はたびたび洪水に見舞われ、干ばつにも見舞われる土地柄であった。

薬師如来を怒らせることで、雨を止めたり、呼んだりする修法が行われた。
この修法は乱暴なもので、この薬師如来坐像を大堰川に浸したという。

江戸時代に祈雨法(雨乞い祈願)を行った額が今も残っている。

    (制作協力:願成寺住職 遠藤秀峰師 / 記:船越治雄)

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